はじめに

1881年に米国にて初のビジネススクールであるウォートンスクールが設立され、既に百五十年近い星霜を経過し、未だ日本においては正式なMBA学位が存在しない。この間、戦争があり、占領があり、終戦があり、経済の発展と停滞があり、いくつかの感染症パンデミックと、そして度重なる民族間、国家間の争いがあった。小生が嗜む日本の伝統文化である競技かるたもこの間に確立され、元号は四度改まった。

人間は長い歴史の中で学び、進化し、あらゆる技術延いては産業を発展させてきた。そこには常にリーダーがあり、志を持つものがあり、ただ利権を求めるものもあった。

人類五百万年の歴史において、1人の一生は僅か百年にも満たず、今世が終われば次は過去に行くのか未来に行くのかもわからない。そもそも時間という概念は現在私たちが住む物質世界にしか存在しないかもしれない。それでもこの世に産まれ落ちた魂が多くの学び、気付きを得られる貴重な今世において、ゼロベース思考、論理思考、ダイバーシティ・インクルージョン等、人間の内面に影響する学びを含め多大な成長を得られたMBAを修めたことが間違いではないことを、一点の曇りなく確信する次第である。

本稿では、小生がMBAを学び、その後博士号を取得して現在に至るまでに強く実感していることを、出来るだけ読者の皆様にも理解して頂ける表現で、大きく3テーマに分けて論じている。1つ目は、おそらく皆様にとって最も関心が深いと思われるテーマ「MBAを取得して変わったこと」である。MBAという学位の価値が世界と比して軽んじられる傾向にある日本において、英国のMBAを取得してどのような変化が起きたのか、実情に即して報告させて頂く。2つ目は、「日本のビジネス環境とMBA」として、部分的ではあるが日本のビジネス環境における実態を踏まえ、MBAや社会人大学院での学修がビジネスとどのような関係性にあるのか、私見を述べさせて頂く。最後に、「日本のビジネスパーソンにとって重要なこと」というタイトルで、こちらも勝手かつ抽象的な私見ながら、日本人が激変する環境で人生を謳歌するために肝要と思われる事柄について述べたい。

MBAを取得して変わったこと

「MBAを取得すれば薔薇色の人生が待っている」わけがない。MBAを取得すれば評価が上がるのではないか、給料が上がるのではないか、求心力が高まるのではないか、モテるのではないか、何かが変わるのではないかと、漫然たる考えをお持ちの方には、私はMBAをお勧めしない。ただし、MBAを取得していることが昇進・昇給を促進させる人事制度となっている企業に所属する場合、学位取得が昇進のきっかけになり得るであろう。しかし、とは言っても、ビジネスパーソンに期待されるのは古今東西、「ビジネスの世界でいかにアウトプットを出したか」である。ましてやMBA保有者となれば、周囲の目は厳しくなる。

多くの日系企業は、MBAの取得を昇進・昇給の条件と定めていない。寧ろ、学問に勤しむ時間を業務にあてがうことを望む企業が多いのではないか。これは古くから根付く日本の企業文化であり、社会人が最も高等教育機関に入学しない先進国たる所以であると小生は感じている(Education at a Glance, 2016)。この背景には、日本の産業が成長してきた過程があるのではないかと想像を巡らせるが、これについては別コラムにて触れたい。小生に関しても、MBA取得が直接的に昇進・昇給に繋がったということはない。

一方で、MBAの課程で行ってきた経営視点でのグループワークや論文執筆を通して得た、論理思考、多様性を重んじる協調思考、ゼロベース思考といったソフトスキルは、多くのステークホルダーと円滑に進めなければいけないプロジェクトワークに、大変値打ちを持っていると感じる。異なる主張が飛び交う議論の場において、他者を尊重しつつも構造的に論点を整理し、その場でまとめ上げる力や資料に落とし込む力は、ビジネスの現場において大変な武器となる。

また、事業部制の組織構造を持つ企業のように、社員1人1人が所属プロジェクトの事業管理視点(組織目標やKPIの管理、事業収支管理などの視点)を持つことが求められる組織においては、MBAで学ぶ経営理論は大きく貢献するだろう。小生に関して言えば、元々事業部制構造の組織においてある程度の事業管理を意識した業務を行っていたため、世界基準での理論と比較しながら、答え合わせをするような感覚で効率的に学び、現場での業務にスピーディに還元することが出来たと感じている。

更に申し上げるならば、小生にとってはゼロベース思考の習慣が、ビジネスの現場のみならず日常生活にも活きていると感じる。MBAは世界中のビジネスパーソンがビジネスを成功させるために学ぶ学問(修士課程)であるが、そもそも一度しかない今世において、ビジネスの成功が最も重要なのかといった、一見ありふれている様に見えて日本のビジネスパーソンが目を背けがちな命題について、真理を追究するようになった。資本主義も経営管理も人間が作り出した概念である。この世の最もピュアで忠実に守るべき原理原則は他にないのか、読者の皆様においてもじっくりと考えられたい。例えば、スティーブジョブスは生前、「私があの世に持っていけるものは愛情に溢れた思い出だけだ。これこそが本当の豊かさである。」と述べている(国際文化研究室, 2016)。ゼロベースで、この物質世界での生を考えることが、あらゆる人生観の受容に繋がり、結果的にビジネスにおいても多様性受容の効果を享受するのであると、小生は考えている。経営管理学と哲学は相互補完していると言えよう。

日本のビジネス環境とMBA

先に述べた通り、日本は社会人の高等教育機関修学率が先進国で最も低い。しかし実際には、社会人が大学院で学問を修めることは、企業にとってのメリットが大きい。多くの識者が述べることと同様、小生も以下の点において、社会人の大学院での学修は本人にとって大変に有意義であり、延いては企業に利益をもたらすものであると考える。

論文執筆による論理思考力の向上

大学院で執筆することになる研究論文は、論理の積み重ねである。先行研究を調べ上げ、論理に矛盾が無いか、漏れがないか、徹底的に考え抜いて論文を執筆する過程で、論理思考力と自身の思考を紙にアウトプットするスキルが磨かれる。これらはどのような業態においても、管理職として要となるスキルである。

視野の拡大によるソフトスキルの向上

大学院の科目課程や学友からのインプット、自身での調査研究など、実務以外の学びを多方面から取り入れることは、実務だけに閉ざされガラパゴス化した視野の拡大に寄与する。これは実際のビジネスシーンにおいても、より柔軟で多角的な思考に寄与する。また、視野の拡大は多様性の受容に繋がる側面も併せ持っている。これまで自らの凝り固まった思考に閉ざされていた世界に風穴を開けることが、キャリアの突破口となり得る。このような体験を通した社員の成長が取引先や顧客からの信頼獲得に繋がり、事業収支の改善に寄与する可能性は高い。

ネットワークの構築

大学院では、普段の業務では知り合う可能性が低い、あらゆる業種のビジネスパーソンとの人脈を得ることが出来る。大学院で築いた人脈が、新たな事業機会の創出に繋がる可能性は否定できない。また、他業界の最新動向をインプットするといった活動も、自社の新たなビジネスチャンスに活かされる可能性がある。

他にも、業務の効率性追求、延いては働き方改革への寄与など、大学院での学修には、個人・企業双方にとって多くのメリットが挙げられよう。上述のメリットを日本の企業経営者など、マネジメントの立場にいる者が真に理解しない限り、日本人が学修しない文化は変化しない、というのが私見である。

ポーター(2019)によれば、日本には、これまで外資の参入を許さず政府に守られてきた幼稚産業と呼ばれる産業が存在する。具体的には、化学、日用品、ソフトウェアなどの製造業やサービス産業全般である。

こういった業界における企業は、これまで競争力の高い海外企業の脅威を逃れ、日本独自のビジネスモデルを構築してきた側面がある。その環境において、MBAという日本に存在すらしない学位が評価されることは稀であるというイメージをお持ちの方は多いものと推察する。私見では、先に述べた通り、人事評価制度の加点対象にはならないことが多いものの、MBA取得によって得られるソフト・ハード両面でのビジネススキルは、実ビジネスの現場に有効に作用し、結果的にビジネスの円滑な推進に寄与する可能性は高い。

私が12歳の頃から始めた競技かるたには、全日本かるた協会という一般社団法人が認定する「級」が存在し、その最上位である「A級」を取得することが多くの競技者の目標となっている。私は15歳の時にA級を取得し、その後数日間の喜びは何にも代え難いものであったことを記憶している。しかしまた、顧問の教諭から告げられた言葉の方が強く脳裏に焼き付いており、今でも毎日心に木魂する。

A級になることが大事なのではなく、A級になった後にどうしたか、が最も大事である

結局のところ、日本であろうと海外であろうと、「MBAを取得した後にどうしたか」が最大限フォーカスされるべきであり、この点においては世界中どこを見ても大きな違いはないのではなかろうか。

例えば日本のシステム開発などの現場においても、IT業界の専門用語に頼らず、顧客が理解可能な言葉で状況や方向性を示し、ステークホルダーとの合意形成を図っていく作業は、古今東西変わらぬ重要性を持つ。また、プロジェクトマネジャーはファイナンスやアカウンティングの基礎知見を踏まえた事業収支管理を行う必要があり、同時にエンジニアのスキルセット、労務、モチベーションといった要素を意識した人材資源管理を柔軟に行うことも求められる。時には予算や契約金額について社内外と強力なネゴシエーションが必要な場面にも遭遇する。これらはMBAの学習を通して体系的に学ぶものであり、その意味でMBAの学習は日本のビジネスシーンにおいても大きな意味を持つ。

一方で、古くからある組織間の馴れ合い体質により、ガラパゴス化したビジネスが存在することも事実である。この様なビジネス環境においては、他に経済効率性、競争力の高い取引先・サービスが存在するにも関わらず、従来の取引先との依存関係を断ち切れずにコストエフェクティブなビジネスが行えないままでいることが多い。こういった現場では、MBAで獲得するスキルが必ずしも有効に寄与しない場合がある。同時に、費用対効果や品質の高いサービスが見過ごされ、結果的に業界の発展が遅れ国際競争力が改善しないという懸念がある。

日本のビジネスパーソンにとって重要なこと

ここまで論じて申し上げるのは少し気が引けるが、小生は、他人に何かを押し付けることを好まない。人にはそれぞれの人生があり、本来、本人が自らの内側に目を背けることなく、自らが望む生き方をするべきであると強く感じている。小生にとってMBAの学修は今世どうしても成し遂げたかったことの1つであり、この過程で強烈な人間的成長を果たすことが出来たと感じているが、これは必ずしも万人に当て嵌まるものではない。よって、全てのビジネスパーソンはMBAを学修するべきである、などという押し付けがましいことを申し上げるつもりは毛頭ない。ここでは私見として、昨今の環境変化を踏まえ、抽象的ではあるが日本のビジネスパーソンにとって重要であろうと感じたことを述べるに留める。

2022年4月現在、世界は激動の真っ只中にいる。率直に述べると、激動の中であっても、本質を見抜き、力強く人生を生き抜ける実力(ここではビジネスパーソンにフォーカスしていることを踏まえ、「実力」と表現する)を身に付けることが、有用ではないかと感じている(尤も、これはビジネスパーソンに限った話ではない、と小生は考えているが)。

2019年末から広がった新型コロナウィルスによって、働き方や生活スタイルそのものが大きく変化している。これは私見であるが、「コロナ前の生活に戻る」という淡い期待は期待のまま終わってしまうのではないか。心の歪んだマネジメントが生み出すオフィスでの執拗なパワーハラスメント、セクシャルハラスメント、モラルハラスメント、アカデミックハラスメントは日本経済の闇であった。コロナ禍は、ビジネスの現場に対する何らかの躾とも言えるのではないか、と小生は考えている。

また、人類は二度と同じ過ちを繰り返さないと肝に銘じたはずであったが、時間の経過と共に記憶は薄れ、何かを支配したいという利己的欲求は増し、僅か数十年前の悲惨な過ちを繰り返そうとしている。

更に、日本は世界有数の地震大国である。多くの研究者の間で、近い将来、大規模な地震が複数発生すると予想されている。

自然や人間自身がもたらすあらゆる災いを経て、それでも私たちはなお、自らの内なる心の声に耳を傾け、今世を力強く謳歌したいと考えるであろう。1人1人が、資本主義という枠組みの中で、「生きる」ことに向き合い、人生を存分に楽しむべきであると小生は考えている。そのためにどのような行動をとるべきか、或いは準備をするべきか、皆様1人1人が考え自分なりの答えを持ち、挑戦されたい(何にも挑戦しない、という選択肢もあるであろう)。私にとってはその行動の1つがMBAの学修であり、結果的にそれが、ビジネスや人生のあらゆる場面に大きく役立っている、ということである。

最後に、個人的なことではあるが、小生が好む名言を紹介して筆を置きたい。ガンジーの言葉と言われているが、実際に誰が残したのかは定かではない。

永遠に生きるかのように学べ。明日死ぬかのように生きろ。

参考文献

OECD, 2016. Education at a Glance. [online] Available at: <https://www.oecd-ilibrary.org/education/education-at-a-glance-2016_eag-2016-en> [Accessed 1 April 2022].

国際文化研究室, 2016. In the end…Steve Jobs. Tokyo: ゴマブックス.

Porter, M. E., Takeuchi, H., and Sakakibara, M., 2000. Can Japan Compete?. London: Macmillan.

西崎良/Ryo NISHIZAKI
North Borneo University College Ph.D, University of Northampton MBA, EU Business School MBA
プロフィール:1986年生まれ 福岡県香椎出身
経営管理学博士(マレーシア)、MBA(英国、スイス)、CFP、競技かるた六段、結びつくかるた会会長
2017年に英国MBAを日本にいながら取得し、2018年に結びつくかるた会を設立。以来、少しでも多くの方にかるたを楽しむ機会を提供したいと、数多くの大会を企画・運営している。本業はITコンサルタント。趣味は学術研究、globeを始めとする音楽鑑賞。